![]() 瞑想や座禅、あるいは断食行や厳格な戒律に従った修行、修道院にこもっての禁欲生活などである。精神を肉体から解放するために、肉体を徹底的に苦しめる難行苦行などもこのための必死の努力であった。いずれの方法も目的を達成するには、長年にわたる忍耐と不断の努力が不可欠であった。結局のところ、これらは意識を、物質界からずれた状態へ移行させるための試行錯誤である。物質界から意識をシフトさせることで、守護霊や仏などの高次の霊的存在との交信を図ったり、予知、念力、ヒーリングなどの超能力を発揮できるようにしたのである。いわゆる霊験あらたかな修験者とは、そういうことができる人たちのことである。これらのさまざまな修行方法は、当初の開発者たちにはある程度の効果をもたらしたかもしれないが、師匠から弟子へと受け継がれていくうちに、次第に教条化し、本来の目的を忘れて方法自体が目的化してしまった場合が多い。つまり意識を物質界からずれた状態へもってゆくための修行であるという本来の目的を忘れ、修行そのものが目的化してしまっている。あるいは方法を無理に文章化したために、真意がゆがめられて伝えられたケースも多々あることは、想像にかたくない。いずれにせよ、こういった方法で、再現性良く自分の意図する特定の変性意識状態へ、移行させることは至難の技であると言わざるをえない。 |
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| 信じているという段階は、まだ疑いのある状態なのである。たとえば、太陽を見てその存在を知っている人は、「わたしは太陽があると信じる」とは言わない。「わたしは太陽があることを知っている」と言う。「信じている」段階から「知っている」段階へ移行するには、自分白身で体験する必要がある。太陽の例では太陽を見るという体験が不可欠だ。体験を通してのみ、未知は既知となる。自分で体験しない限り、未知は既知とはならない。わたしの体験は、あなたにとつてはあくまで参考程度にしかならない。これは水泳や車の運転技術を体得するのに似ている。他人がこれらを学ぶのをいくら見ていても、あるいは本を読んで理解しても、本人が練習しないことにはうまくならない。プールのど真ん中に放り込まれたら、おぼれるしかないし、高速道路を走行中に突然ハンドルを渡されても、事故るしかない。頭で理解していても役には立たないのだ。こういうものかと頭で理解しても、死んだ際にあんまり役立たない。死ぬ前に自分で体験し、既知とする必要がある。水泳や運転を覚えるのに時間と練習が必要なように、未知を既知とするには、努力が必要である。ただ努力は必ず報われることを、知っておくべきだろう。 | |
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